Concept?

KATACOMB ― PEJJITE ISのコンセプトのようなもの

「西洋の誘惑」というコピーを目にしたのは高校生の頃と記憶している。芸術新潮に連載されていた中山公男氏(当時、西洋美術館の館長さん?)のエッセイにつけられていたタイトルだった。美術作品を礼賛した内容は忘れてしまったが、このコピーから受けたインパクトだけは今でも鮮明に残っている。

西洋文明は、とりもなおさずキリスト教文化だと認識している。中世以降、幾多のカテドラルを彩ってきた彫刻やテラコッタは西欧美術の根幹を成すものだ。密室の中に累積されたその膨大なエナジーと比べれば、近代以降のモダンアートや合理主義はそのアンチテーゼに過ぎないとさえ思える。

集団を構成する個々人の力を、文化というかたちで集約できたとき文明が発生する。キリスト教は強い求心力で西洋文明を成形する原動力となったが、形が整うにつれポテンシャルが失われるのも世の常である。この文明の最も輝かしい瞬間は、宗教的なヒエラルキーが完成し表現様式が類型化する以前 ― 西洋の地平とキリスト教の摂理が交差した刹那にある。そのとき、シンボリックな方形(クロスプラン)の建造物は、あたかも胎内に潜むかのように地下に在り、発芽の熱気に包まれていた。「カタコンベ」である。

ユーラシアの極西となる西欧は、地理的な位置づけにとどまらず多くの意味でこの国とは対極の存在だ。「誘惑」というエロチックな響きに共鳴するのも対極なるものに惹かれる所以であったろう。異質であるがために不可解で、不可解であるが故に魅惑される。そして、惑っているかぎりそれは遥か対極でありつづける。

幸福なためらいの時に終止符を打とう。異質なものとの同一化を願うのは宿命的な業のようなものだ。避けては通れない。

完成された様式美で取り繕った西洋におもねる必要はない。彼女自身もその鎧を脱ぎ去りたいと願っているはずだ。その素肌に触れるには最も輝かしい時を共有すればいいのだ。


誘惑のささやきを唯一の糧に、ヨーロピアンならぬ自分の手でこの地に方形の空間を創り出したい。果たして何が出来上がるのか?確かに言えるのは、それが古代ローマのカタコンベとは似て異なるものということだ。


   2006年12月9日    縄 文人