比賀流 快楽的セルフビルド入門

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第4回 木工事 [ 初級編1 ] ~土台敷設、柱建込み

「作業棟」の全容作業棟のベースコンは打てた。
今回は、そのうえに土台を敷き、柱を建てていく。
初め、安上がりな古材を使おうと思ったが、
汚いので気が滅入った。
でも、親切な伐採屋さんのおかげで、
うまいこと新材が入手できた。
気を取り直して、作業を続ける。
セルフビルド初級編 =「 作業棟 」
の形がだんだん現れてきた!



夢はあるが資金がない。だから、 「 小遣い 」 感覚セルフビルド

前回は、立上がりコンクリートの打設を待っているところで紙幅が切れた。打設はちょっと後に回しておいて、今回は木工事の話を進めていこうと思う。ただその前に、コンクリートの材料について、少し補足しておきたい。

立上がりの壁は、壁厚200mmとして容積およそ7m³。立米当たり1万2千円とすると、1日で約8万5千円もの「散財」だ。まあ、基礎をつくるにはこれしかないわけだから散財というには不当かもしれないが、遊び感覚で作業している僕にとっては、材料費といえども手痛い出費。ましてや、一式ウン万円といった建築業者流の見積りなどは別世界の話である。

僕はセルフビルドで建物をつくることが目的で始めたわけではない。したいこと(木工芸の創作と展示)を実現するために、広いスペースが必要だった。そのスペースをつくるのに、資金が潤沢にあれば業者任せで済む。そのほうがよっぽど気楽だったが、あいにく資金がない。要は、金がないけど夢はある、というところに出発点があったわけである。
(なんだか、いつものように理屈っぽくなってきた。このへんで辞めておこう・・・、CAUTION!)

釘1箱、コンパネ1枚ごとに身銭を切っていくのは、費用節減には最も有効。なまじ「建築費」などと特別予算を組んだりせずに、小遣いで建てるくらいの気分で建てるのも、また一興。

ちなみに、生コンにも質に応じて立米単価が数種ある。打設が冬季なら寒冷地用のものが必要だが、僕の現場ではもっぱら強度の低いグレード(呼び強度180N/mm² )を使った。でも、実際には大差ないので、強度が上のものを打ったほうが安心かもしれない。コンクリートは、そのはか「スランプ(粘度。高さ30cmのスランプコーンを鉛直に引き上げた直後に、コンクリート塊の頂部が何cm下がったか、で決まる)」「骨材(砂利など)の大きさ(mm)」によって「18-18-20」というように表される。つまり、強度は180N/mm²、粘度(柔らかまたは硬さ)は18cm、骨材の粒径は φ 0~20mmというわけで、注文はこの表現を使って行うのである。

与太話はこのへんにして、いよいよ木工事の話・・・の前に、当然のことだけれど先立つ話は材料のこと。コンクリートに続き、木材調達の方法についても書いておこう。


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古材は安い、だけど汚い。建設意欲もメゲ気味だ。

前回も書いたが、「作業棟」は僕のセルフビルドにとっては初級編、つまり練習だ。建物用途は生活の場ではなく、あくまで作業(建設作業と創作工房の)ができればいいので、材料、工法ともまったく凝ったことはしなかった。それに、作業棟の段階では、予算に関して完成までの見通しがもてないので、とにかく安価な材料を探すことを心掛けた。

最初に買いつけたのは解体屋の古材。価格は、3寸5分(105mm)角×4mの柱材が1本千円。半割なら500円といったところだ。釘や金物こそ取り除いてあるが、いたる所にホゾ穴があいていて、中には腐りかけている物まで置かれていた。どれでも値段は同じということなので、全身ほこりだらけになってなんとか使えそうな物を50本ほど抜き出し現場に持ち込んだ。資材置き場に積み上げた時からイヤな予感がしたのだが、組み込みを始めるとすぐに後悔してしまった。黒ずんだ古材が立ち並んでいくにつれ、建築工事なのか解体現場なのか判らなくなってしまったのだ。

『これで建物は出来上がるのだろうか』というネガティブな雰囲気がそこかしこに漂い始めた。まずい!「厳選した古材」なので強度的にはさほど問題はないと思っていたが、孤独な長丁場の作業である。セルフ・ビルドにはセルフ・マインド・コントロールが何よりも大切。日々、完成に近づいているという実感と必ず完成させるという自信が不可欠なのだ。

黒くくすんだ柱の色に、一度は迷いが生じたが・・・

幸いなことに、「厳選した古材」はベイマツと栗材だったのでその殆どを土台として活用することができた。無駄は出さずにすんだが、古材の活用はきっぱりとあきらめて、『餅は餅屋』、再び伐採屋の公徳さんの意見を聴くことにした。公徳さんには土地造成にとりかかった時、現場に植林されていた20~30年生の杉を市場に出してもらい、それを伐採の手間賃にした。

ものは相談で、今度はほかの場所から伐り出した物を、市場に出す値段で譲り受けることになった。石(約1/3m³ )当たり8千円ほどで、それに製材費用の3千円/石が上乗せして必要になる。製材所までは公徳さんに運んでもらえるが製材を終えた製品は自分で現場に搬入しなければならない。個々の製品の重さや総量を考えると、これは非常に骨の折れるアルバイトだ。

もちろん、大工さんのように材木商から買いつければ、電話一本でたちどころに仕切り場に製品が揃うのだけれど、そのためには二万円/石の出費を覚悟しなければならない。他人のサービスを受ければ得られるものを自分の労働や工夫におきかえていくのがセルフビルドの基本であり、醍醐味でもある。もちろんコストを抑えることも目的のひとつなのだが、コスト・パフォーマンスの悪い作業でも、あるいは場合によっては余計な出費がかかってでも(個人が慣れない作業をやるのだから、労働生産性は最低のレベルなのだ)、楽しくできる事に手間を惜しんではいけない。

セルフ・ビルドを成功させる秘訣は、苦労を、どれだけ楽しみに置き換えられるかであり、肉体的な苦痛を精神的な快楽に翻訳する能力の有無にあるような気がする。(SMの話ではありません)。う~む、またまた屁理屈が…。


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やっぱり新材だと気分がいい。建込みもどんどん進む。

土台の敷込みと柱ホゾ穴彫りホコリだらけの古材と違って、むせかえる木の香りのなかで仕事をするのは楽しい。すでに幾本か並んでいた古材の柱列と対比すると、新材は光り輝いて見えた。おのずと作業もはかどるというものだ。

布基礎の上に、防腐処理した(古材の)土台をアンカーボルトで固定する。その上に、尺取り虫よろしく半間おきにホゾ穴を墨付けしていく。ホゾ穴あけは、少し深めに電動ドリルでさらっておいてからノミで形を整えると意外に簡単だ。固定する前にやった方が作業はしやすいのだが、取り付けの時の位置決めが難しくなるので、現場合わせを原則にしておいたほうが失敗はない。運悪くホゾ穴の位置にボルトがあった場合は、逆に柱の底に穴をあけて突出しているボルトをホゾ代わりにする。中心が重なることは稀なので穴の場所をずらして位置決めは調整すればよい。

ふたつの壁面がぶつかるコーナー部分から柱を立てていくが、ホゾ穴に差し込んだだけでは柱は直立してくれない。簡単な自家製下げ振りを作って垂直を出し、板や角材を打ちつけて固定しておく。ただし、仮止めの角材が多くなると誤ってつまづく恐れも多くなる。柱が将棋倒しになって袋叩きにでもされたら大変だ。ころあいを見計らって柱の頭を繋いでおく。

桁(又は頭つなぎ)は、半割材を二段重ねにして使った。土台との接合と異なり、釘止めができるからだ。一段目の材に墨付けしておいて、順次固定していく。五寸釘を使ったので木口止めでも下穴が必要になる。カスガイ打ちは、『子は親のかすがい』のたとえにもあるように殆ど効果が無いし(ン?)、逆にパネルを貼る時に邪魔になるのでやらない方がよい。

桁の半割材を接合部が重ならないように固定し、筋かいを何本か入れ、補強のためにパネルを数枚仮止めすると壁面らしくなってくる。一服しながら自分のやり終えた仕事に満悦したくなる頃合だ。


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「 独りぽっち 」 が生み出した。軸組×ツーバイ工法。

建築に関してプロである読者の皆さんならもうお分かりだろうと思うが、僕が作業棟の建設で採った木工事の手法は、軸組みと2X4の混合技法で、素人が一人で作るという前提で考え出したものだ。技術が未熟なので、軸組みだけで仕上げる自信は持てないし、さりとてパネル工法を採用するのは一人では難しい。軸組みもどきのやり方でなんとか壁を立ち上げ、パネルで補強して構造上の不安を解消しようというもくろみなのだ。うまくすれば強度的な相乗効果が得られるかもしれないという狙いもあった。

柱を建て込む

とにかく大スパンで耐力壁を入れにくい建物なので強度には一番気を使った。最悪のケースは、パネルの強度をあてにして軸の接合をおろそかにし、軸組みの仕上がりを過信してパネルでの補強をなおざりにすることだが、悲しいかな、独りぽっちのセルフビルダーにその心配はなかった。

諸々の設計図や施工図、延々と続く会議や打ち合わせ。それらはひとつの仕事を、複数の人が一体になって遂行するために考え出された方法であり、個人的な作業には不要なものだ。気楽ではあるが、その代わりに強い自己制御(セルフ・マインド・コントロール)が必要となることは、上に述べたとおりだ、セルフ・ビルドに馴合いや手抜き工事は無縁なのだ。

第5回へつづく・・・


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コラム

ひとくちコラム 「 破壊者 」 の巻

子供の頃の僕の別名は『こわし屋』であった。
あだ名というほどのものではなかったが、死んだ親父が事あるごとにそう呼んでいたのだ。
父親は手先が器用で、庭先に小さな物置を作って、一通りの道具を揃えていたのだが、
僕にとってそれは最高の遊び道具だった。
アリの巣にドライバーを挿し込んで中を掻き回したり、金鎚で虫をペチャンコにして遊んでいた。
本来の使い方をしないので工具を壊してしまうことが多かったのだ。

まともに道具を使えるようになってからも『こわし屋』であることに変わりはなかった。
電気器具を勝手に分解したり、縁側に切りこみをいれることに活用していたからだ。
父親は几帳面でもあったので、道具の手入れは行き届いていて、使いかってはすこぶる良かった。

母親は80歳近くなった今でも元気で、時折機嫌伺いに実家に帰るが、
仕立てる前の服地をはさみで両断された昔話をまだ愚痴ることがある。
わがままを聞いてもらえない腹いせにやったらしい。本人はすっかり忘れているが・・・。

長じて、学園紛争華やかりし頃、学生たちの間では『 (現在の社会体制を)破壊することは、
(新しい世の中を)創造する事である』といった理屈がまかり通っていた。
爆弾を仕掛けたり、殺しあったり、確かに彼らは破壊活動には熱心だった。
小物の『破壊者』である僕はそんな活動に参入する勇気がなくて、
後ろめたい想いをしていたことを憶えている。

彼らが破壊を創造にまで止揚できたかどうかはともかく、『小破壊者』にとっては
ありがたい理屈だったので、永く座右の銘としてきた。

そして現在、工事の間じゅう、気にかかっていたことがある。
自分のやっていることは何かをつくり上げる行為なのか、逆に破壊的な所行なのかが曖昧になってきたのだ。
森を切り開いて造成することは『自然破壊』であり生き物の生活の場を狭めることになる。
木や石、ガラスや金属など、素材にはそれぞれに固有の美しさがあるが、建築行為とは
その美しさを相殺して建物の一部に取り込んでしまうことでもあるのだ。
破壊が創造の可能性を併せ持つならば、逆に創造も破壊の危険をはらんだ行為なのだ。

一人で山の中にいると、らちもない事を考えるものだ。
所詮人間がやっていることである。
それが破壊であろうが創造であろうが大差はない。
じたばたと人生を生きて、そそくさと逝くだけだ。

子供の頃に、何かを壊してしかられたことは何度となくあったが、
不思議にそのことで父親にぶたれた憶えはない。(他の事ではしばしばあった)
粗野な息子のいたずらの中に、親父は創造の可能性を期待していたのかもしれない。

破壊者


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